モンゴル5%ライフ

普通に日本に暮らしていながらモンゴルがじわっと染みてきています。モンゴルに興味のある方に役立つ、ちょこっと情報がお届けできればうれしいです。

朝ドラ原作⁉︎モンゴル女性の人生記『星の草原に帰らん』

モンゴルをテーマにした本は、男性的だったり、学術書だったり、または絵本だったりが多いのですが、やわらかく読めて、とても良い本がありました。

1999年に出版された『星の草原に帰らん』(B.ツェベクマ著 / 鯉渕信一構成・翻訳、NHK出版)。一言でいえは、先の大戦に前後する時代、波乱万丈な人生を信念をもって生き抜いた、そう、そのまま朝の連続テレビ小説の原作になりそうなモンゴル女性の一代記です。

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著者は、作家の司馬遼太郎さんが、『街道を行く モンゴル紀行』のための取材旅行で出会い、その後、彼女を主人公にした『草原の記』を書いたモンゴル女性。

モンゴル民族の中でもブリヤート族であるツェベクマさん、バイカル湖の東、シベリアの南端というのでしょうか、現在のロシア連邦チタ州の郊外の村で、1924年に生まれたそう。そして種をあかせば、私のモンゴル語の先生のご親族でもあります。

旧ソ連から政治的経済的な圧迫を避ける父母に連れられ、子供の時に今の内モンゴル・ホロンバイル草原に移った後、困難な家庭環境の中でも向学心を持ち、それを伸ばそうとしてくれた母によって、13歳の時、高塚繁先生という日本人女性がハイラルで開いていた私学校に通うことになります。

高塚先生は、将来モンゴルの少女たちが、日本で高等教育を受ける可能性をひらくべく、日本語や日本の文化を自宅に寄宿させながら教育します。日本語はもとより、掃除や料理をはじめ、日本風の行儀作法、清潔感という文化もモンゴルの少女たちに厳しくも熱心に指導。「モンゴル人として生きるんですよ。モンゴルのために日本語を学ぶのです」と少女たちに教えた高塚先生。師弟の間には心の絆がありました。

しかしソ連軍の侵攻の日が訪れ、高塚学校は閉鎖、のちに高塚先生は日本の土を踏むことなく帰国の道半ばで亡くなったことが分かります。

戦後ツェベクマさんは、中国の内モンゴルで職業婦人として自活していきますが、日本語の教育を受けたということで、文化大革命時代に当局に目をつけられます。過酷な目にあいながらも、日本を、高塚先生を否定することはできないという気持ちをずっと持ち続けたツェベクマさん。夫となったブリンサインさんが戦前に日本留学経験もある学者だったこともあるでしょう。自分の今までの人生を作った日本の教育と、それを与えてくれた両親や高塚先生への評価は誰がなんといっても変わらない、という揺るぎない想いが、その後の人生をも切り開いていく原動力になります。

文革の嵐から子供を守り、「モンゴル人のための国で生きたい」と、夫とも生き別れを覚悟し、中国を脱出。親類もいない、当時のモンゴル人民共和国に移り住むことを決断。一時はどの国のパスポートも失うような状況になりつつも、身に付けた日本語を活かし、国営ホテルだったウランバートルホテルで働くことができたのです。

この、要約してもしきれない、波乱万丈さ!

戦争やイデオロギーの嵐に振り回されながらも、ツェベックマさんが自分の目で見て感じて大事にし続けた、「日本人だって、モンゴル人だって中国人だって、よかったこともあれば悪かったところもある」という考え。この、冷静で、また温かく良識ある考え方は、多様な人が混じり合って生きる今の世で、すごく大切なことのような気がします。

さて、この本のツェベクマさんの話は、ウランバートルホテルを引退した後で終わります。でも、私はこの後の物語も知っているのです。

晩年はウランバートルに近い保養地テレルジに、ブリヤート風の木の小屋を建てて住んだツェベクマさん。いま、そこでは親族の方がツーリストキャンプを運営しており、ゲルや木のキャビンに泊まることができます。たぶん高塚先生の教育が継承されて、とても清潔な環境で、食事も日本人にも食べやすいおいしさ。 

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こんな夕食が

キャンプの一角にはツェベクマさんが暮らした小屋があり、中には写真や本が飾られています。

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小屋に飾られた司馬遼太郎さんとの写真

 

私はこの本の前半を、ツェベクマ・キャンプに滞在中に小屋から拝借して読み、後半は日本に帰国後に読みました。

昔、ハイラルという遠い異国の街で、高塚先生という日本人の女性から日本語を学んだモンゴルの少女が歩き続けた道は、今の時代にも、日本とモンゴルをつないでいるのです。